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白洲 次郎

白洲 退蔵

白洲 退蔵

■白洲退蔵(1829―1891)

三田藩儒官白洲家に生まれる

白洲退蔵 は1829年(文政十二年)七月十五日、三田に生まれている。 白洲家は代々藩の儒官であり、父の文五郎は当時、藩校造士館教授を務め ていた。

退蔵は1845年(弘化二年)、藩から勤学料として年十両を与えられ、大坂の儒者篠崎小竹 (1781―1851、寛政の 三博士の一人である古賀精里の弟子。)について学び、後、江戸 の古賀謹堂(1816―84、古賀精里の孫。幕府の外交に従事 した。)について儒学を修めた。三田に帰ってからは、父の後を 継いで造士館教授に就任し、1860年(安政七年)、百三十石 を与えられている。

彼は1854年(安政元年)一月十五日、藩命を受け、浦賀沖に来航した黒船に庶民の姿に変装して近づき情報収集を行っている。

当時、このような行動が見つかれば相当の刑罰を覚悟せねばならなかったことだろう。吉田松陰の場合は、ただ単に黒船を見るだけでなく海外渡航を図ったのだが、余りの計画性のなさに当然のように発見され、牢屋に幽閉されている。

他の藩でも隠密裏に情報収拾をした話は残されている(例えば松代 藩では佐久間象山を派遣している。)が、山奥の小藩である三田藩 が独自に情報収集を行なったということは実に驚きである。
藩政に参画


九鬼隆義の偉さは、彼が藩主になった時、退蔵の人柄と学識に感銘を 受け、自ら下座に降りて師の礼をとったことでも窺えるが、その一方 で、退蔵その人も相当の人物であったことは容易に想像がつく。

1863年(文久三年)、退蔵は隆義に懇請されて藩政に参画。最初 は郡奉行として、財政再建・治水事業といった難問の解決に全力を投入 した。

当時、藩の財政は極端に窮乏しており、負債二十数万両に対し、藩庫 にはわずかに三十両を余すのみであったというからこれは末期的である。 もうどの御用商人も、これ以上三田藩に金を貸したりはしなくなって いた。藩札もそれまで、元禄札、元文札、天明札、嘉永札、慶応札、番地札等が出されており、財政状況の厳しさが窺える。

そもそも財政において本来守るべきは、『入るを量って出ずるを制す。』 ということに尽きる。特に当時の財政においては鉄則と言える。税収を 景気とは無関係な年貢に依存している当時にあってみれば、現代の ように、赤字国債を出してでも有効需要を創出し、景気が回復すれば 税収が増加して赤字を返すことができるなどというケインズ的図式は 成り立たなかった。そもそも歳入の範囲内でやりくりすべきであったのだ。

退蔵は徒歩にて大坂に赴き、債権者の面々に藩邸に集まってもらった。 その時、従来、債権者の饗応は特に豪華な料理をもってするのを常と してきた慣例を破り、料理といえば鶏鍋 のみという粗餐 で彼らを迎え、 その節約への決意を逆に強烈にアピールした。

そして現在の窮状をありのままに話し、藩主の節倹を旨とした生活ぶり や財政再建の為に抜擢された自分の抱負を誠心誠意語った。そうした ところ、彼の誠実な人柄が満座の債権者の心を打ち、中には追い貸しに 応じてくれる人も出てきたという。

彼の藩政改革は、ただ財政改革のみにとどまらない。
彼はまず藩領の境界を明らかにした。次に、神社の一部を校舎として郷学 を設置し、宮田や寺田の一部を学田として財政基盤をも付与している。 三田から出た偉人のほとんどが教育の重要性に意を用いていることは、 特筆すべき事実である。これは、三田の教育が充実しており、自分もその 恩恵に与ったからであろう。しかし、宮田や寺田を収公したことは、後々 領民の不満を呼ぶことになる。

また、村毎に社倉 (凶作に備えた米の備蓄庫)を置き、備蓄した米の半分 を毎年肥料代に充て、肥料を求める村人には米をもって対価とさせた。そう することで、毎年半分づつの米が新米と更新され、備蓄米の品質劣化を防ぐ ことにもつながった。

更に藩の刑法を定め、博打 などの軽犯罪については片鬢(側頭部の髪)また は片眉を剃らせ、溜池開削や堤防工事といった役務に就かせた。現在、三田の 誇る三田牛も、退蔵が飼育を奨励したことから盛んになったと言われている。


■明治維新後の退蔵

1868年(明治元年)には大参事(従来の家老職に相当)となり、戊辰戦争 勃発を機に三田へ戻っていた川本幸民を師として藩士に洋学を学ばせ、一方で、 福沢諭吉が三田藩のブレーンであったことから、九鬼隆義の意向もあり彼の 啓蒙書 を大量に購入。郷学で学ぶ若者達に頒布するといったこともしている。 (白洲次郎によると、彼の家には福沢諭吉から退蔵宛に五万円ほどの借金を無心 する手紙も残っていたという。)


また1869年(明治二年)の廃藩置県に際しては、武士の帯刀 を止めさせる べく、隆義を通じて廃刀令の採用を政府に上申 したりもしている。この種の 上申を行うことが当時にあって命懸けであったことは、退蔵がこのために京都 で命を狙われたことでも判るであろう。

廃藩置県後、退蔵は新政府から民部省への出仕を打診されるが、この時は福沢 諭吉の教えに従って官吏の道を選ばず、九鬼隆義・小寺泰次郎らと神戸で志摩 三商会を起こしている。(しかし、退蔵は小寺泰次郎のような実業家タイプでは なかったように思う。)

1880年(明治十三年)には兵庫県会初代議員となっている。
1882年(明治十五年)八月には、九鬼隆義と福沢諭吉の推薦もあって、 横浜正金銀行(後、東京銀行と改称。現在の東京三菱銀行。)の官選取締役 副頭取となり、明治十六年一月には頭取になっている。(福沢諭吉は、我が 国経済の将来を考えると金融の発達は不可欠だと考え、この横浜正金銀行の 設立に協力したほか保険会社の設立も提唱していた。なお、退蔵が頭取の時の 副頭取は小泉信吉といい、その息子が慶応義塾の名塾長として有名な小泉信三 である。)

しかし横浜正金銀行は退蔵が入行する前、紛争が勃発していたらしい。加えて 時の銀行局長と衝突し、退蔵が頭取の職にいたのはわずか二ヶ月で、小泉信吉 副頭取共々辞任している。

その後も大蔵御用掛に抜擢されたり岐阜県大書記官に就任したりするが、明治 二十三年、突然職を辞した。公務の傍ら旧主九鬼隆義の家宰 も勤めており、 こちらが忙しくなったためである。

1891年(明治二十四年)一月二十四日に九鬼隆義は他界するが、退蔵は その間寝食を忘れて看病したという。その後、看病疲れからか退蔵自身も体調 を崩し、同明治二十四年九月一日に発病。二週間にも満たないわずかな闘病 生活の後、隆義の後を追うようにして同月十三日死去している。享年六十三歳。 儒学者に相応 しく、主君隆義公への忠義を貫いた一生であった。


■白洲退蔵への評価

三田藩は明治新政府に一銭の負債も引き継がなかったというから、財政改革は 徹底したものだったのだろう。しかし結果から言えば、このことが後の百姓一揆 を引き起こしたとも言える。一揆後の弾正台 (明治二年に設置された警察機関) の取調べで退蔵は、『今回一揆が起こったのは、郷倉を建ててここへ年貢米を 運び込み不作飢饉に備えようとしたのを、誰かが誤り偽って人々を迷わし群集が 騒ぎを起こしたのである。しかしその首謀者は既に絞首刑にした。』という意味 の発言をしている。そこには全く反省の色がない。


確かに白洲退蔵の行動は儒者である彼らしく、全て正論から発している。財政 改革にしても『借りたものは返さねばならない。』という彼の正論に正面切って 反対することは困難である。しかし、政治というものは、必ずしも理論通り行く ものではなかろう。一つの施策によって、喜ぶ者と悲しむ者が出てきてしまうと いうジレンマに陥ることもしばしばである。しかし、絶対に必要不可欠なものは 別にして、基本は、喜ぶ者の数とその程度との掛け算をして、悲しむ者のそれ との比較検討の中から正解を引き出していく作業が政策論議ではないだろうか。 (政治の難しいところは、必ずしもこれだけではない点にあるが…。)

その点、退蔵はこの検討作業を怠ったか、事実認識が不十分(領民の苦しみを 過小評価していた)だったのだろう。確かに負債が大きければ、藩士への給金 の支払いが滞る可能性もあるだろう。また、その負債を明治政府に引き継が ざるを得なくなったとした場合、新政府での三田藩や藩主隆義の発言力が下がる ということがあったかもしれない。

百歩譲って、そのことが仮に三田藩の為政者にとって極めて重大な関心事であった としても、新式銃の購入等の多額な出費を一方でしていることの説明は困難で ある。急激な財政改革というような強い薬には、副作用がつきものであるという 重要な事実にもっと早く気付くべきであった。

ただ、我々は結果論で議論しているわけで、こうした批判は当時の退蔵達には 酷かもしれない。九鬼隆義に宛てた手紙の中で、福沢諭吉は退蔵のことを 『白洲先生』と書いている。九鬼隆義が師の礼をとっていたことから敬称を 使ったのかもしれないが、もしそうであっても、尊敬に値する人物と福沢が 認めていた節がある。これは大変なことではないか。慶応義塾創設者で一万円 の顔でもある人物に、『先生』と呼ばせていたわけだから…。

様々な毀誉褒貶(きよほうへん)を別にして、疑う余地なく彼の政治手腕は三田 藩随一であった。それだけに中央政界で活躍する白洲退蔵の勇姿 を一度見て みたかった気もするのである。


http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/24_sirasu/sirasu.html



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